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2008年11月09日

大坂城再建

 大坂城は1615年(元和元年)の大坂夏の陣で落城し、城は灰燼に帰した。
 その後1629年(寛永6年)に2代将軍徳川秀忠よって再建された。
 この再建工事の折に、豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、全体に数メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大阪城の遺構は地中に埋められてしまった。
 江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返し、特に1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城となりました。
 現在の天守は1931年(昭和6年)に復興されたもので、天主としては三代目です。
 
 天守閣には、こんな損傷と修復の歴史があるのですが、石垣は江戸時代のものです。
 その江戸時代の再建の時に石垣の材料を切り出したと思われる遺構が唐津で見つかり、話題を呼んでいます。
 こんなに遠くから運んでいたのですね。
 この当時の徳川幕府の権勢を感じさせる話ですね。






◎佐賀新聞(2008/11/07)
 浜玉で石切り場確認 大坂城再建時に搬出か

大坂城再建 唐津市浜玉町谷口の黒田山山頂で、江戸時代初期に城の石垣用の石材を切り出したとみられる石切り場跡を、唐津市教委が確認した。現場に残る石材は最大で20トン超と推定され、当時築城された城郭規模などから、徳川幕府による大坂城再建(1620―29年)の際、唐津藩初代藩主の寺沢広高が切り出した可能性が大きい。搬出道の跡も見つかり、石を切り出し、加工、搬出するまでの作業過程を一貫して確認できる全国初の遺構で、江戸初期の土木技術研究に大きな影響を与える資料になりそうだ。

大坂城再建 巨石の存在が地元から寄せられ市教委が4月、調査に入った。確認された遺構は標高約190メートル地点に立地し「谷口石切丁場跡」と命名。石切り場の広さは約1000平方メートルで、花こう岩を切り出した直方体の石材(約4メートル×約1・5メートル×約1・4メートル)4個を確認した。辺の長さが異なり独特の反りをつけて加工してあるため城の石垣の角に使う「角石」とみられる。

 現場に露出する自然石や残された石片に「矢」と呼ばれる大型くさびを打ち込んだ跡があり、専門家が石切り場と判断。南西約800メートル離れた玉島川に向かう斜面の谷筋には、長さ約50メートルにわたるくぼみも確認。石材搬出用の「石曳(ひ)き道」とみられる。

 石切り場は各地にあるが、切り出しから搬出までを示す遺構が1カ所で確認できるのは全国初。市教委は「現場で石を細部まで仕上げている点でも前例がない」と重要性を強調する。

 現場に残る「矢」の跡は、最大で長さ約15メートル、幅約6センチと大型で、このサイズから江戸時代初期の石切り場と推測。時代的に寺沢家が所有していたとみられるが、石材は唐津城の石垣の約10倍もあり、市教委は「藩内で使われたものではない」と見る。

 一方、この時期は大坂夏の陣後、徳川幕府が諸大名に大坂城を再建させたころと重なる。寺沢家も工事に参加することで幕府への忠誠心を示しており、大坂城天守閣の跡部信主任学芸員は「そのような巨石を使うのは大坂城以外では考えにくい」と指摘する。さらに大分県竹田市に伝わる古文書にも、大坂城工事のために唐津で石を割った記述があることから、市教委は「寺沢家が唐津で角石を切り出し大坂城普請に使った可能性は大きい」と話している。

【写真上】辺の長さが異なり、独特の反りをつけて加工してある方形の石材=唐津市浜玉町谷口の黒田山山頂

【写真下】「矢」の跡が残り、石材を切り出したと見られる花こう岩の露頭=唐津市浜玉町谷口の黒田山山頂
大坂城再建

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Posted by 昏君 at 11:40│Comments(0)佐賀県
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