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2009年03月04日

玄海原発:町が描いた夢/2 (毎日新聞)

玄海原発:町が描いた夢/2 浮上したがん施設誘致

 「県議会にプルサーマルの住民投票条例案が出たら、可決させますよ」

 06年8月。県議長(当時)の原口義己県議=佐賀市区選出=は福岡市の九州電力本社で、同社の松尾新吾社長(現会長)に迫っていた。同条例案が県議会で否決される半年前。古川康知事が松尾社長と会う前のことだった。

 当時、粒子線がん治療施設の候補地は10カ所ほど。九州では福岡と鹿児島から手が挙がり、佐賀は後発組だった。

 原口県議が最も気にしたのは、福岡市だった。04年に準備会を設置済みで、九州経済の中心地。佐賀からも近い。「九電が福岡に力を入れたら、佐賀に目はない」

 「福岡ばかりで、佐賀のために何かしてくれたことはありますか」と原口県議はたたみかけた。松尾社長は「佐賀が手を挙げるからには、応援しないわけにはいかない」と応じたという。

 事実上の支援取り付けで、流れが傾いた。松尾社長は福岡市の施設誘致に携わっていた橋田紘一常務(現九電工社長)に指示したという。「佐賀にも協力するように」

 一方、福岡市。誘致に向けた研究会は07年9月を最後に開かれなくなり、08年度には100万円の事務費も執行されなかった。そして09年度予算案では項目さえ消えた。

  ◆  ◆  ◆

 古川知事がプルサーマル計画を了承した06年3月。二階俊博経済産業大臣が玄海町を訪れ、県内の粒子線がん治療施設誘致は萌芽(ほうが)した。

 寺田司町長(当時)の大臣への要請書の「地域振興対策」に「がん治療等の高度医療の誘致」が記された。「(プルサーマル受け入れの)見返りに何らかの企業誘致を考えてほしかった」と寺田氏は振り返る。

 玄海町がある東松浦半島は1956年、国定公園に指定された。景勝地である一方、「上場(うわば)」と呼ばれるやせた台地が広がり、農業に不向きな土地だった。

 原発誘致当時の町長、故山崎節治氏は回顧録「原子力発電所と私」(90年)に<“佐賀県のチベット”ともいわれるほど貧しかった>と記した。老朽化した小学校の改築も財源不足で苦しく、就任翌年の1965年には町民約500人が出稼ぎに行き、正月と盆にしか帰らなかった。

 それが、71年に原発の建設工事が始まると一変した。雇用が生まれ、原発立地による国の交付金だけでも4号機(97年運転開始)までで計約120億円に及んだ。

  ◆  ◆  ◆

 おぼろげだった施設誘致計画は、06年8月に就任した岸本英雄町長が粒子線がん治療施設誘致を掲げたことで、転機を迎える。

 岸本町長は経産省や九電の松尾氏に協力を求めながら、千葉市の放射線医学総合研究所など、全国の粒子線治療施設を視察した。中でも岸本町長を引きつけたのは、標高約250メートルの高原に位置し、リゾートホテルを思わせる兵庫県たつの市の県立粒子線医療センターだった。

 「山の中にあって、うちのほうが都市部に近いくらい。唐津なら十分じゃないか」

 町は唐津市への施設誘致を目指し始める。=つづく



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Posted by 昏君 at 19:25│Comments(0)玄海町
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